1957年に起きた天城山心中事件。
学習院大学の男子学生と女子学生が心中自殺をした悲しい事件です。
この事件の真相はストーカーなんでしょうか?もしくは相思相愛だったのか?
女子大生、愛新覚羅慧生さんが美人と評判です。
天城山心中事件とは?
1957年12月10日、伊豆半島の天城山で行方不明になっていた学習院大学の男子学生と女子学生が死体で発見された事件。
男子学生の名は、青森県出身の大久保武道、
女子学生は愛新覚羅慧生(あいしんかくら えいせい)といい、中国、清朝のラストエンペラーである、愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)の姪であったことから、センセーショナルに報じられました。
天城山心中事件の経緯
大久保武道と愛新覚羅慧生は、1956年の4月、学習院大学文学部国文学科に入学し、クラスメイトとして出会います。
愛新覚羅慧生は、清朝の最後の皇帝、愛新覚羅溥儀の弟、愛新覚羅溥傑(あいしんかくら ふけつ)と、嵯峨 浩(さが ひろ)との間に長女として生まれました。
父と母の婚礼時の写真。
母の嵯峨 浩は日本の華族、侯爵 嵯峨実勝(さが さねとう)の娘で、慧生は日中ハーフということになります。
幼少期を満州国で過ごし、日本にある母の実家、旧侯爵嵯峨家で育ちます。初等科から学習院女子中等科、高等科を経て同大学に入学。
特殊な運命を背負ったお嬢様だったのです。
一方、大久保武道は青森県八戸市出身の学生。
画像はこちら。
父は南部鉄道常務取締役や、八戸の漁具問屋の経営も行っていた地元の名士。
大久保武道は裕福な家庭環境で育ったといいます。
田舎から上京し、学習院大学に入学した大久保武道。
どんな人物だったのかというと、
丸坊主で学生帽をかぶっており、質実剛健、猪突猛進、行動と感情が直結しているような人物だったといいます。
そのため都会的な学習院大学の学生達の中では浮いていた、と。
愛新覚羅慧生は美しくて、快活で社交的。学園でも人気があり、いわゆる学園のマドンナだったようです。
孤立しがちな大久保武道に気を配って声をかけていたという愛新覚羅慧生。
大久保は優しくしてくれる慧生に感激していたといいます。
二人の交際の経過
・6月下旬、大久保は慧生を自宅まで送る。
初めて2人で会話をして互いの身の上話をした。
慧生の母は、「あの人は一体なに?ガス会社の集金人かと思った」と発言したとされる。
大久保の異様な風体に対し、家族の反応は厳しいものがあり、以来、慧生と大久保との交流を厳しく取り締まるようになる。
・大久保は慧生に手紙を送るようになる。
恋愛の熱い内容の中に、死を含ませた文章を書いている。
大久保は死への衝動を持っており、大学でも「命がけ」という言葉が口癖であったという。
この頃の慧生は大久保に対し、好意はあるものの、自身の特殊な生い立ちを考えて冷静さを保とうとしていた。
・12月、大久保は実家に帰る
慧生への思いを断ち切るために実家に帰り、断髪。座禅し、断食修行を行う。
慧生に絶縁状を送る。
それを受け取った慧生は毎日のように大久保に手紙を送る。
体調の悪さもあって、この頃揺れていた気持ちが一気に傾いてしまった模様。
・1957年2月、婚約
二人は蕎麦屋で長い間語り合い、婚約を決める。
慧生は友人らから猛反対され、解消を持ち出すもその度に大久保が取り乱し、婚約解消を解消するということを繰り返した。
慧生は家族に悟られないように二人の間で細かく交際のルールを決める。
・7月、貯蓄を始める。
大久保は二人の将来のためにアルバイトをしながら貯蓄を始める。
また、大久保は自分の父親が浮気し、愛人に子供を産ませていたことを悩んでいた。
自分にも同じ血が流れている、というのだ。
12月2日
慧生は、親友のオサトに拳銃を見せる。
大久保が実家から持ち出したもので、これで自殺するというので一生懸命説得して預かったと話していたという。
※銃は大久保の父が満州で憲兵をしていた時のもの。
他にももう一人の親友、木下も銃を見せられていたが、日頃から2人のもめ事について聞いていたので重大なことになるとは思わなかったという。
12月4日の朝、慧生戻らず
慧生は普段通り大学へ行くが、午後7時頃になっても自宅に戻らず、家族が探し始める。
12月5日、慧生から手紙が届く
大久保が住んでいた学生寮の寮監、穂積の元に慧生からの手紙が届く。
12月6日、捜索
朝から伊豆方面へ寮生達が探しに出る
12月10日、午前9時半頃 遺体発見
百日紅の木の下で、2人が並んで横たわっているところが発見される。
※マスコミでは横たわっていたと報道されていたが、第一発見者によると、女性は木に背をつけ座った状態で、男性は1mほど離れたところに横たわっていたといいます。間に銃が落ちていた、と。
美談にするため動かしたのではないかと言われているようです。
銃は大久保の右手に握られており、慧生の遺体の左こめかみに銃弾の穴があったという。
天城山心中の真相はストーカー?相思相愛?
天城山心中事件は、その内容からストーカー殺人なのか、相思相愛の上での情死なのか遺族間で意見が分かれていたそうです。
大久保家は二人は合意の上で死んだとし、
嵯峨家は、慧生の母が交際に反対していたことからも、ピストルで脅された上での無理心中と主張していたそうです。
優しい性格で孤立している人を放っておけなかった慧生さんと、純粋、猪突猛進ゆえ、その優しさを真正面から受け取った大久保さん。
当初、慧生さんはそこまで大久保さんに入れ込んでおらず冷静さを保っていたようですが、大久保さんからの絶縁状がきっかけで、次第に思いが燃え上がっていったようです。
手紙のやり取りからもその様子が分かります。
慧生さんは、手紙に「(武道様が)大好きで大好きで大好きで」と綴っており、
大久保さんも「慧子(えこ)のことが大好きだ」と書いていました。
しかし、恋愛関係になってからは、慧生さんは大久保さんの衝動に引き込まれていったような感じがしますね。
完全なストーカーとはいいがたいと思いますが、巻き込まれた感はあります。
何と言っても慧生さんは最後まで引き留めていたので。
天城山まで乗せていったタクシー運転手の証言が残っています。
車内で慧生さんは、「帰りましょう、ねぇ、帰りましょう」と言い続けていたそうです。
愛新覚羅慧生が美人!
学園の花、と評されていた愛新覚羅慧生。
美人な画像はこちら。
家族と。
左から3番目の女性です。
本当に気品があり、きれいな方ですね。
天城山心中の真相。妹や親友の証言が明らかに
60年の時を超えて、天城山心中の関係者の新たな証言が明らかになりました。
12月1日放送の爆報!THEフライデーでこの事件についての特集がありました。
妹の嫮生(こせい)さんと、親友の木下さんが事件について語っていました。
妹さん曰く、「(姉は)絶対に自殺するつもりはなかったはず」と。
事前に翌年の抱負を年賀状に書いていたといいますし、コートの注文もしていたというのです。
木下さんは、失踪前に電話がかかってきた、と。
慧生さんは、大久保さんの銃について伝え、「大久保さん、自殺するなんていってるのよ、やーねー」と言っていたといいます。
その様子から、大久保さんの自殺を止められると思っていたのではないか、と。
今でもこのことを悔やむと語っていました。
そして、戦後は愛新覚羅家は裕福ではなく、お米を買うお金にも困っていたといいます。
身を寄せていた嵯峨家も戦後に侯爵の位をはく奪され、国からのお手当もなかった、と。
だから本当は身分違いの恋なんてことはないんだ、というようなまとめ方でした。
しかし、愛新覚羅家のお祖母様は大久保さんのことを嫌っていたといいますから、やはり血筋に対してのプライドがあったのではないかと考えられますね。
激動の時代背景を色濃く反映した、悲しい事件ですね。